Adoさんと言う歌手がいるそうだ。

Adoさんと言う歌手がいるそうだ。

Adoさんと言う歌手がいるそうだ。

 

この歌手は歳が二十歳にも満たないのである。

そんな最近生まれたと聞いて、本当に羨ましい限りである。

 

つい最近デビューしたばかりなのだが、もう引退の形があるという。

しかもその理由は、自分自身を好きになれたらというお話らしい。

ただただ、すごい話である。

 

彼女は昔から歌を歌っていたそうだ。

そして容易に想像できるが、歌う事が好きだったそうだ。

ここまでは非常によくある話である。

しかし昔というのがそれほどに昔ではないのだ。

私からすれば、つい昨日のお話である。

それがこの前メジャーデビューして、一躍スターダムへとのし上がった。 

 

それにも増してすごいと思えるのが、みんなが顔を知らないことである。

今現在において、歌い手の顔を知らないということは

それほどハンデではないのでは無いかということが分かる。

 

今までの常識であれば、顔を見てその信頼性を担保したような感じに思う。

しかしこれからの時代は、顔を見なくとも関係がないと言う時代である。

いや、とっくにそんな事は関係なかったのかもしれない。

 

まぁよく考えると彼女は歌い手で、顔を見なくとも必要ないと言える。

しかし人間なので、顔を見ることによりやはり親近感が湧き

そして相手に興味が湧くというのが、人間というものであるのは事実だ。

しかし逆に顔を見て冷静になる方もいるので、その話はメリットデメリットがあるが。

 

なんにしても、これから彼女が歌を歌う。

それを皆が聞く。

彼女の歌唱力に、聞き手が賞賛を送る。

彼女はさらに認められ、次なる新作を出す。

それに続けと、色々な方が歌を歌う。

彼女の耳にも届き、彼女はさらに輝く。

皆がそれを目の当たりにし、さらに彼女を賞賛する。

そしてこれからも、色々なステージで活躍するだろう。

彼女だけでなく、世の中にも非常に良いことである。

https://youtu.be/Yk06X9mos_I

ここで一つ疑問がある

 

では今までは、爆発的に成功を収めるにあたり何が必要だったのだろうか。

人を信じ尊敬するにあたり、何が必要だったのだろう。

歌が上手い歌い手は山の様にいた筈で、話も上手い人も山ほど居たと記憶する。

顔を見れるというのは、信用に値しなかったのだろうか?

「 今までは何年やっていたと 」と、言うのが信用だった気がする。

では何年もやっていれば信用が得られるのだろうか。

 

去年創業した会社より、50年やってる老舗の方が当然信用力はある。

では50年やってるから安泰かと言うと、51年目に廃業する店もある。

数年前までは小さな社屋であったが、今は見上げるビルを構える会社もある。

それは誰も分からないし、創業した本人も見えない時がある。

 

彼女は歌い手として動き出し数年である。

歌い手としての信用力というのは、世間では全く無かったと言っていい。

しかしこれほどに人気が出るのは、彼女をリスペクトした人たちの存在だろう。

 

ここから言えることは、時代が変わったのかと思う。

今現在の時代においては、実力が一番と感じる。

そして情報においては、その内容の重要性が一番だと思う。

 

「 そうかぁ・・・これからは、この二つだけが重要なのか・・・ 」

とは、思わないでいただきたい。

 

「 今までもそうだったよ と言われそうだが

世の中の流れと、その時のタイミングが重要なのである。

 

これには、多分反論があると思うのだ。

ではタイミングが良かったから、彼女が売れたのかというお話である。

 

彼女には歌唱力という実力があった。

それは全く否定されることではない。

それとタイミングが重なったのである。

 

こういう言い方をすると、他に関わった人の存在が有耶無耶となる。

これも全く違うのである。

 

他の人が彼女の魅力を、どれだけ出せるかと試行錯誤したはずである。

そして彼女はそれに応えようと、必死に自分自身を見つめたと思う。

そして個人の発信力で、新たな時代のツールにより彼女は世の中に漕ぎ出した。

他にも色々な事があったはずである。

私の居る場所からは、見る事はおろか想像もできないはずである。

 

それらの時代の歯車とも言うべきものが、現在とガッチリとは嚙み合ったのであろう。

何がどうあれ、素晴らしいことだと思う。

そして良い時代になったのだと改めて思う。

 

では、これから実力主義の社会が来るかと言うと、一部はそうだと思う。

時代は変わるが、その後に時代は巡るのである。

昔、流行っていたが、今は全く持って流行らなくなったモノが

この先も流行らないかと言うと、いきなり流行りだしたりする。

 

例えば皆さんは、タピオカという飲み物をご存じだろうか?

 

今の若い人は新しい飲み物だと喜んで、沢山飲んでいたかもしれない。

しかしあの飲み物は昔、一時だけ流行ったことがある。

一時的なら、似た飲み物でナタデココなどもあった。

全く似てないよと言われそうだが、ここでは割愛する。

 

一時期恐ろしく流行ったのだが、急速に熱は冷め時代が変わり

今では売ってるところさえも見当たらず、よく分からなくなったモノがある。

ここで言いたいのは、彼女の浮き沈みがどうこう言うつもりなどは全くない。

 

実力があれば売れると言う考え方をするのはいいと思う。

それは非常に重要な事で、必要条件の事でもあるので。

ただここでお伝えしたいのは、実力もあれば良いと言いたいのである。

他にも要素があれば、さらに進めるよと言いたいのです。

いつの時代もそうだったのですが、更にそうなったと思うのです。

 

「 私はこの仕事を何年やっています 」と、言う信用も必要である。

私は「 コレ 」を、ご満足行く形で、「 あなたに分かりやすく使いやすい様に

丁寧に最後まで安心して、お渡しする事が出来ます 」という事が重要だと思う。

要するに「 知識がありますよ、経験がありますよ 」という事が大切である。

 

そして、これらの全ての事は、ひとつも欠けてはいけないのです。

そして、一つだけ抜きん出てるだけで良いのです。

 

はぁ??? ( ゚Д゚)ハァ?

 

上記の二文は、矛盾していることを言っています。

自分で言っていても、おかしいと思うのです。

しかし、コレを理解する事が重要と思うんです。

 

こういった理不尽で、矛盾していて、不都合で抜きん出ていて 

素晴らしい才能と、人には言えない不安材料を抱え歩き続ける人たちがいる。 

これらの人を、理論立てて説明する事はナンセンスなのである。

 

プラスの部分を、自分より優れているからと異常に嫉妬して叩き

マイナスの部分を「 自分の様に生きよ 」と、嘲笑う

 

もっと人は自由であるべきだと思う。

 

朝令暮改を卑下する人たちがいる。

初志貫徹を賞賛する人たちがいる。

 

どちらも凄いと思うし、違えど自分を納得させれたらいいと思う。

周りを納得させようというのは、おこがましいとさえ思う。

 

これが大勢の部下を抱えた、会社の役員の考えであれば大問題である。

こういう人についていく人は、絶対に混乱するからである。

組織のトップは勿論、仕事でこれはダメです。

 

ただ大半の人間は、こういった立場じゃないと思う。

それならば朝令暮改があり、初志貫徹はあってもいいと思う。

そしてそれらの真逆があったとしても、全く構わないと思う。

 

日本は初志貫徹をすると称賛される。

なぜなら初めに言っていた事を、貫き通すのは素晴らしきといった風潮があるから。

確かにこれは素晴らしいと思う。

これは一理ある。

 

しかし途中で間違い、気がついた時どうするだろうか?

 

初志貫徹にこだわるあまり、それを曲げずに批判を恐れ

そのまま突き進んでいったら、その先はどうなるだろうか?

途中で「 間違ってた 」といえば、北へと向いている足取りを

その時点からすぐにでも南へと、帆先を向けることは簡単なのである。

たとえ笑われて貶されたとしても、本人は南へ行きたかったのだから

「 良かったねぇ 」と、一言でも声をかけるのが人だろう。

 

また、朝令暮改を嫌う人がいる。

昨日は「 よし! Aだ! 」と、勢いよく言っていたのに

今日は「  よし! Bだ! 」 と言っていたと。

これも場合によっては、非常に良いと考えていいのだ。

この判断だけで、人の信用力を判断するのは早計である。

この瞬時の判断で、失いそうだったものを失わなくて済むかもしれない。

あちらを立てれば、こちらが立たないのは判断する時にはつきものである。

こればかりをする人は、信用するのは難しいが・・・。

 

犬が西向きゃ尾は東

 

これは当たり前だと言う人と、いや違うよという人もいる。

私も犬を飼っていたので、これは違う時があるよと言いたい。

まれにどちらも東を向いていたりするのだが・・・。

 

そういった屁理屈はいらない。

しかしそういった屁理屈も必要である。

 

ここでまとめよう。

 

何かを判断する時に、己の正義だけで判断しようとすると道を誤る。

己の正義の中に、この世の広さが入ってないからである。

100万円の器を、高いという人と安いという人がいる。

何をもって高いと言ったのか、何を持って安いと言ったのか。

その人の答えに対して、反論しても仕方がないのは理解できる。

 

人の意見を否定するのは簡単である。

その考えと、真逆の考えをぶつければいいだからだ。

その人がその考えに至ったプロセスや、その先の事などは考えなくていい。

否定をしたり論破をするのはそれ故に、本当に簡単なのである。

 

最後にAdoさんについて一つ言いたい

 

彼女は歌が好きだったのだろう。

彼女は今も歌が好きなのだろう。

彼女はこれからも歌を歌っていくのだろう。

そして彼女は素性を明かさず活動している。

彼女が顔を出さないことに揶揄する方がいる。

そして彼女に対して、その考えに対して否定をする方がいる。

 

全てを肯定しろなどとは言わない。

全く否定をするなとも言わない。

 

彼女が判断したことにより、それをどうこう言うべきでないのだ。

たとえこれからも歌うのであろうと、明日辞めるのであろうと。

 

これほどの話題性のある彼女が、いざ素性を明かすと明日からどうなるであろう。

これほど簡単に分かりやすい問題は、世の中には無いのではあるまいか?

 

他人に対してというより「 人に対して 」の行動で

絶対に踏み込むべきところを見誤らないというのは大切である。

人の生き方を踏み荒らす人生を送らないでいただきたい。

 

色々な人が居る。

 

作り出すエネルギーというのは、大きい方もいれば小さい方もいる。

一気に作り上げる方もいれば、徐々に徐々に育てている方もいる。

一度に形作る人もいれば、後から装飾される方もいる。

ものの作り方には千差万別あり当然、人の数だけあると思っている。

 

人の生き方や形を、あれこれ揶揄する時間を人は持つべきではない。

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